松本ESテック創業の舞台裏~お客様・電磁鋼板との大切な出会い~

取引の始まり 仲間 戦友

松本ESテックでは、長年にわたりお取引先様との信頼関係を大切にし、昭和から平成、そして令和へと時代とともに歩んできました。現在では多くの社員が、創業者である「松本兼吉」と直接の面識はありませんが、「電磁鋼板」へのこだわりやその思いは、今もなお、会社の礎として受け継がれています。これまで50年史やコラムを通じて創業当時の話や会社の歩みをご紹介してきましたが、資料には記録されていない「創業期のエピソード」を深掘りするため、古くからのお取引先様にご協力をいただき、当時の貴重なお話を伺いました。この記事では、松本ESテック創業以来お取引をいいただいている「電気鉄芯工業株式会社」様のご協力を得て、当時のエピソードをご紹介します。

出会い

戦闘用ヘルメット

電気鉄芯工業株式会社の創業者である現会長渡部忠利様のお父様、渡部忠雄様(以下「先代渡部様」)と松本ESテックの創業者・松本兼吉(以下「創業者松本」)が初めて出会ったのは、日中戦争から太平洋戦争にかけての戦時中のことでした。

先代渡部様は徴兵前に三菱重工で旋盤工をしており、その技術を買われて工兵として戦地に赴き、大砲や機関銃、馬の蹄鉄を打つ任務に就いていました。その際、軍隊で出会ったのが、同じく技術を持つ創業者松本や、多くの優れた技術者たちでした。その後、戦地で負傷し帰還した先代渡部様は、その怪我のため、同じ職業に就くことがかないませんでした。戦時中に(昭和17年頃)帰国し、先代渡部様が始めた仕事は、旋盤工の技術を活かした包丁づくりや、自転車ライトの部品作りなどの金属加工でした。渡部製作所の歴史はこうしてスタートします。

終戦後の再会と事業の始まり

鉄のスクラップ

終戦後、約629万人の軍人・軍属が海外から引き揚げたころ、創業者松本も日本へ帰還しました。帰国後、彼が目にしたのは焼け落ちた日本の街並みでした。電気に精通していた創業者松本は、この焼けた街から、復興のために必要な「ある素材」に目をつけます。ケイ素鋼板(電磁鋼板)と呼ばれるその素材は、電気で動くものすべてに使われています。「今後日本の復興には家電が必要不可欠である」と予測した松本は、1947年「松本商店」を立ち上げ、廃墟から「電柱に使われているトランス」や焼け落ちて利用できない「変電所などの鉄くず・トランス」を集め、鉄のスクラップ業を始めます。

同じ頃、荒川区西尾久に本社工場を移転した先代渡部様は、トランスなどのケイ素鋼板(電磁鋼板)が使用されているスクラップを松本商店から購入し、お取引が始まります。戦時中に同じ釜の飯を食べた戦友であった二人は、ご縁があって再会し、戦後の日本の復興を見据えてスタートした事業が合致し、お取引関係が築かれたのでしょう。

先代渡部様は松本商店から仕入れたスクラップ(ケイ素鋼板)を活用し、トランスの鉄芯づくりを始めました。当時のスクラップから取り出したケイ素鋼板は、現在松本ESテックで提供しているような、きれいなケイ素鋼板(電磁鋼板)ではないため、そのまま使用することはできません。仕入れたスクラップ(トランス)は丁寧に分解し、絶縁油の中に入っているケイ素鋼板を新聞紙に並べて油を取り、手作業で再利用可能な状態に仕上げます。この作業は、当時小学生だった現会長渡部様が油に塗れながら、日々お手伝いとして行っていたそうです。

戦後の鉄芯製造

古いラジオ

戦後、日本の家庭にはテレビは普及しておらず、ラジオが主な情報源でした。そのためラジオの需要が高く、ラジオ用トランスの鉄芯は大量生産されることになりました。渡部製作所のワンパンチプレス機(一枚一枚鉄板を手動で型抜きして作業するプレス機)から始まった鉄芯製造は、モーター付きプレス機の導入により、量産体制へ移行します。渡部プレス工業所とケイ素鋼板の、そして株式会社松本商店との、現在に続く新たなお取引が始まります。

松本商店が松本シリコンスチール工業に変わる4年前、渡部プレス工業所は株式会社電気鉄芯工業へと社名を変更します。先代渡部様が戦時中の包丁づくりからスタートした事業は、戦後のラジオ、家電が普及する頃には扇風機、工場用の換気扇モータの鉄芯作りへと移行し、その時代のニーズに合わせた鉄芯を製造し続けました。その後、日本が経済成長を遂げ、家庭にはテレビ、洗濯機、掃除機、冷蔵庫などが普及し、さまざまな家電製品に適応した鉄芯(トランスの鉄芯、モーターコア)の需要も増えていきました。各製品に合わせ専門性が高くなり、鉄芯づくりもそれぞれの道へと分かれていきました。

大量の受注:金魚のぶくぶくとエアレーションポンプ用トランス

金魚すくい・エアレーション

とても興味深い所で、大量に受注があったのは「金魚のぶくぶく/エアレーション」に使用するトランスの鉄芯だったそうです。お祭りで見かける「金魚すくい」などから金魚がブームとなり、「ぶくぶく」が飛ぶ様に売れました。小さく簡単な作りのトランスでしたが、こちらも電磁鋼板から製造していました。

昔と今:輸送手段の違い

リヤカー

戦後間もない頃は、鉄スクラップ(壊れたトランス)を仕入れるため、リアカーで松本商店へ向かい、製造した鉄芯もリアカーでお客様先まで運びました。時には西尾久から大井まで、リアカーを引いてトランスを納品したこともあったそうです。

現在は幕張工場でスリット加工した電磁鋼板コイルを、トラック便でお届けしています。

昔と今:トランス鉄芯形状の違い

F型トランス

現在のトランスの鉄芯は「E I型」が一般的ですが、昔はアルファベットのFのような形の「F型」と呼ばれる鉄芯が上下反転し二つ組み合わされた鉄芯でした。さて、その理由をご存じでしょうか?

当時、大きな発電機のモータは大きな電磁鋼板の切り板から鉄芯を作っていました。四角い切り板を丸い金型で抜くと、四隅に三角形のスクラップが残ります。この三角形のスクラップを余すことなく利用できる形が「F型」に抜くことだったため、昔は「F型」が使われていたそうです。

電気鉄芯工業様の凄いところ

中古で買ったプレス機を改造しSPM400(1分間に400ショットプレスできる)まで回転数を上げたり、クランクや、オイル循環機構も改造したりしたそうです。創業時、鉄芯製造の材料がスクラップだったため、色々な素材に対応できるよう、壊れない様な金型を作ったり(下型は刃先だけ焼き入れるなど独自の工夫)、小さい金型は全て作ったりしていたため、ワイヤカット、フライス、旋盤、などの設備は一通りそろっていたとのこと。そのほか、電気炉を作ったり、スリッター機やプレス機、金型の中古品を購入し、直して海外へ販売したりするなど、鉄芯作り以外でも「マイスター的な技術」をフルに活かしたご商売をしていらっしゃいました。松本ESテック白井第二工場に現在ある金型用設備は、電気鉄芯工業様の影響を受けているのかもしれません。

戦友たちの中での出世頭

戦地で共に帰国後の日本について語り合ったお仲間の中でも、今思えば松本兼吉は「出世頭」だったそうです。松本商店の創業から現在の松本ESテック株式会社に至るまで、さまざまな苦難を乗り越えながら、松本ESテック株式会社は社会に必要とされる企業へと成長を続けています。

まとめ

旧友 戦友 仲間

戦時中に偶然出会った技術者渡部様との絆は、松本兼吉や松本ESテックの歴史を刻むうえで、かけがえのないものだったに違いありません。創業当時は、商売道具を自分の感性と足でかき集めた、先代お2人の様子が目に浮かぶようです。歴史を繋ぐ私たちも「柔軟な発想」と「創意工夫」で、先人に負けぬよう、お客様との絆を大切にしながら、「電磁鋼板」の加工を続けてまいります。

電磁鋼板加工の老舗「松本ESテック株式会社」をご紹介